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zoom RSS 大友皇子を想う 弘文天皇陵 新羅善神堂 園城寺法明院 〜 京都125

<<   作成日時 : 2018/05/14 00:05   >>

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先週、岡崎市内の大友皇子の遺構を巡り大津京に思いをはせ、今週は大津京巡りに出かけました
先週の記事は → こちら

8:33 大津京駅に到着
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弘文天皇陵に向かう途中の歩道脇には大津絵が紹介されています
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8:40 御陵の参道入り口に到着
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今日は大安、弘文天皇陵への曲がり角の山ノ上迎賓館では結婚式のお客様を出迎えていました
8:43 弘文天皇陵に到着
大津市役所の裏なので表通りからは見えず静かな場所です
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弘文天皇は天智天皇の第一皇子で、名は大友皇子。
天智天皇の崩御後の672年、皇位をめぐるわが国古代最大の内乱「壬申の乱」が起こり、大海人皇子(天武天皇)率いる吉野側が勝利したため、その即位が疑問視されてきたため在位を認めない見解もあったようです
明治政府により「弘文天皇」と追号されたのは1870年(明治3年)のことです

天智天皇(中大兄皇子)は、667年に、斉明天皇の御時から都を置かれていた飛鳥岡本宮より、近江大津宮に都を移されました
それまでの多くの都が置かれた飛鳥近辺から離れたこの地ですが、ひとつには、大化の改新の理想に基づいた政治改革を行うために人心の一新を図ることを目的とされました
それとともに、同盟国であった百済への援軍を出して唐・新羅連合軍と戦った、4年前の白村江での敗戦後、本土侵攻への危機が深刻になったことから、国土防衛の根幹として、天然の要害であり交通の要衝でもある大津に遷都したものと考えられています
さらに、琵琶湖西岸には大友皇子が養育された大友郷があり6世紀後半頃から大陸や朝鮮半島から渡ってきた渡来人の子孫が多く住んでいたからなど様々です

わずか5年半の都で終わった大津京
骨肉の争いとなった壬申の乱
千年以上もの長い間、天皇と認められなかった大友皇子(弘文天皇)
謎深い壬申の乱ですが、岡崎の墓所も本当は御陵なのかもしれませんね

御陵の横に大きな鳥居があります
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先を進むと石垣と石段がありその先には神社のような建物が建っています
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新羅善神堂です。三井寺の鎮守神である新羅明神が祀られています。
1350年頃に、足利尊氏が寄進したとされる堂で、国宝に指定されている
三井寺、正式には天台寺門宗総本山 長等山園城寺は、壬申の乱で命を落とした大友皇子の菩提を弔うために、その息子である大友与多王が開基したと伝えられています。つまり百済側の人間が開基した寺の境内に新羅の神様を祀るお堂があるのです。
大友の父である天智天皇は、百済の側の人間で、唐と結んで百済を滅ぼしたのが新羅だったわけで、いわば仇の国の神を父親の菩提寺で守り神にするということは普通では考えられない。
不思議な話です。
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源頼義は前九年の役、後三年の役と呼ばれる奥州の争いに駆けつける前、新羅善神堂で必勝祈願をしたという。一説によると、源氏は新羅からの渡来系ともいわれている。源氏が氏神とした八幡神も、秦氏との関係が深い新羅の神という話がある。
その頼義の長男が武勇で知られた源義家で、義光は三男に当たる。
新羅三郎というのは、新羅善神堂の前で元服をしたからというのだけど、それもまたどうしてここだったのかはよく分からない。
義家は京都の岩清水八幡宮、次男の義綱は京都の賀茂神社でそれぞれ元服をしている。
後三年の役のとき、東北で苦戦する兄の義家を助けるために義光は奥州へ駆けつける。
最終的には源頼義一家が阿倍氏、清原氏を倒し、東北から関東にかけての一大勢力となっていき、これがのちの鎌倉幕府の基礎ともなる。頼朝が鎌倉で平氏打倒のために立ったのは、このとき以来の基盤が鎌倉にあったからだ。
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渡来人との複雑に絡み合った歴史のかけらが見え、それに触れれたので感動しました
弘文天皇陵と新羅善神堂に深々と頭を下げ次を目指します

9:00 えっ、ここを行くの!?園城寺法明院の入口?
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藪かきは数秒で参道に出ます
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山門で入山料100円を竹筒の中に入れます
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閉め切られた本堂です
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庭園は荒れています
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木々の間から近江富士が見えます
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日本美術の真価をアメリカ・ヨーロッパに紹介し、その振興に務めた日本美術界の恩人といわれたフェノロサ
彼は、法明院からの景勝をこよなく愛し、「どうしても琵琶湖の見えるこの土地で死にたい」という生前の遺言を残していました。フェノロサは、ロンドンで客死し、その遺言どおり、法明院のこの地に墓が立てられました。
彼がもし今活き返ったら、現在の高層ビル群を見て驚くのでしょうが、昔と変わらぬ美しい近江富士の稜線を見て気持ちが変わる事はないでしょうね

その2へ続く

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
湖の都、大津京、今まで山、盆地中だったのが、なんだか開けた都、そんなイメージを持っていたのですが、水運、外交の土地でもあったのですね。百済、新羅、また時代が変わり源氏の元服の神社にもなり、フェノロサにも愛された場所。大友皇子、弘文天皇に始まり、琵琶湖の湖岸の歴史を知りました。
岡崎の大友神社、友人から鎌倉街道のことでメールが来ていました。また、岡崎の方も歩きに行こうと思います。
かのこ
2018/05/14 21:21
かのこさん
大友皇子から大津京を巡って歴史の奥深くまで触れる事が出来て大変良い体験をする事が出来ました

鎌倉街道の遺構も是非辿ってみてください
新しい発見が見つかると思いますよ
せきあ
2018/05/15 08:05

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