「徳川家康公400年祭」が17日、開幕しました

2015年1月17日に「徳川家康公400年祭」が開幕しました。
家康公の元服式が行われたとする静岡浅間神社で開かれたセレモニーでは、徳川宗家18代当主の徳川恒孝さんらが鏡開きを行うなどし、祭りの幕開けを祝いました。

という事で岡崎の徳川家ゆかりの地の紹介をしていきます。
今までもゆかりの地の記事を公開していきましたが2015年は特にこだわっていきます

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家康公の父である松平広忠公のゆかりの地の紹介します

松平広忠は大永六年に三河国山中郷の山中城(愛知県岡崎市)で松平清康の長男として生を受けました。
隣国に駿河の今川家と尾張の織田家と言う強豪に挟まれ常に緊張状態が続く時代に、父の清康は奮戦し、一代で混乱している三河一国を統一して尾張の織田信秀(信長の父)に圧力をかける程強力な勢力を築いていました。
13歳の時に、守山崩れと呼ばれる悲劇的な事件、父の清康が尾張の守山にて部下に誤殺されてしまったのです。
守山崩れで松平軍は岡崎に撤退しましたが、一週間後混乱する松平領に織田信秀が兵を率いて領内に進軍します。松平家臣団は団結して広忠の叔父の松平信孝を大将として井田野(岡崎市)で撃退しました。
しかし井田野の合戦後、岡崎松平家の乗っ取りを目論む松平信定が、隠居していた広忠の曽祖父の松平長忠を騙して領地、家臣団を自分の物にした為に当主である幼い広忠は国を追われてしまいました。
広忠は阿部大蔵たち七人の家臣だけで伊勢国へ逃げ、再起を図りました。
翌年の天文五年三月十七日に広忠らは遠江国(静岡県)掛塚に船で上陸し、各地へ手紙を出して仲間を求めました。
その働きの甲斐あって岡崎家臣を味方に引き戻す事に成功、松平信定と和議を結び、三月二十五日に無事に岡崎に帰還できました。
天文十年(1541年)に16歳となった広忠は緒川城(愛知県東浦町)の城主水野忠政の娘で14歳の於大(おだい)と結婚します。そして翌年の天文十一年十二月二十六日に長男が生まれました。幼名を竹千代と言い、後に征夷大将軍となる徳川家康です。
家康は広忠の嫡男ですが一説によると、於大と結婚する前に大給松平和泉守乗正の娘お久との間に忠政(幼名は勘六)という子をもうけていたそうです。公的に於大の方が正室となった為に家康が嫡子となりました。
於大を迎えた為にお久は桑谷(岡崎市桑谷町)に住み、家康出生の時と同じくして生まれた異母兄弟を僧籍に入れて、ひっそりと暮らしました。後にこの息子は恵最と名乗り、父広忠が無念の死を遂げた後、広忠寺(岡崎市桑谷町)を建立して父の菩提を弔いました。
もう一人の兄弟松平忠政は左京太夫の官位を受け、姉川の合戦にて酒井忠次指揮の一番隊に属して奮戦しましたが、若くして病死しています。お墓は岡崎市の法蔵寺にあります。
天文十六年(1547年)織田信秀に重要拠点の安祥城(愛知県安城市)が攻撃されます。
広忠は弟の源次郎信康と藤井松平家の松平利長、五井松平家の松平忠次、矢田松平家の松平康忠らを援軍に送りますが、織田勢の猛攻に耐え切れずに討ち死にしてしまい大切な家臣と安祥城を失い、一気に力が落ちてしまいました。
忠は状況を好転させる為に駿河の今川義元に助力を求めます。義元は応じますが見返りに、「嫡子の竹千代を人質に出せ」と言ってきました。仕方なく広忠は竹千代を今川家に送ります。それから竹千代(家康)の人質人生が始まります。
その後、三河小豆坂(岡崎市)で今川軍(主将:太原雪斎)と織田信秀軍が激突し今川軍が勝利します。これにて西三河は今川軍が完全に掌握し、松平家は解体はされなかったものの今川家の一軍団として闘う事になります。
天文十八年三月六日、織田家臣で加茂郡西広瀬(愛知県豊田市)城主の佐久間全孝が送った刺客の岩松八弥によって広忠が暗殺されたのです。
広忠の遺体は能見原の月光院(のちに松応寺)に密葬され、お墓は愛知県岡崎市の大林寺大樹寺広忠寺法蔵寺にあります。

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