三河新四国八十八ケ所参り 2巡目 ~ 三日目 その1
三日目は二日目の続き愛知環状鉄道末野原駅から第二十一番札所、第二十二番札所の大樹寺を目指します
雨が止むのを待ち出かけたので今日はどこまで行けるかなぁ
末野原から鴛鴨町に入り目的地の一つ、鴛鴦山 遍照寺 ここは三河西国三十三観音の第三十番札所です。
本堂と観音堂
しっかり閉められており、お参りも出来ません
山門を出るとすぐに小さな祠がありました
役行者様が祀られていました
途中で
牛頭(ごす)天王を祭る祠跡として塚が築かれたという
鴛鴨松平家の墓所に偶然たどり着きました
於美津の墓
榊原清長、長政の墓所
徳川家康公、井田野の戦いこれから巡る目的地を暗示しているかのようです
鴛鴨松平家の菩提寺である隣松寺は墓所の南に位置します → 隣松寺
もう一つの目的地が近づいてきました
1460年頃、深津藤太夫の名がある。鎌田氏を称していたが、11代鎌田光頼の時、深津氏に改称して初代となる。藤原重次を経て、深津正次の時、1563年「三河一向一揆」で家康公に従事したが、佐々木にて討死。次の政利は、松平宗家8代広忠、9代家康公に仕えたと云う。
いよいよ徳川家康公渡船の所碑です
三面には、いわれが刻まれています
永禄3(1560)年5月1日「桶狭間の戦い」で、今川義元討死を聞いた家康公(当時は、松平元信)は、大高城を脱し、刈谷城主家臣の案内で、鳴海から地鯉鮒(知立)、隣松寺(配津村)を経て、配津村の神退より、配津村の船頭の案内で矢作川を渡り、5月21日無事に大樹寺に着きました。時に家康公19才の時でした。家康公を案内し、舟で仁木村へ渡した船頭は、銀銭3文と長刀一振の書付を頂いたとあります。
ここは鎌倉街道です。東海道はまだ無い時代、鎌倉から京都へ続く街道です。
渡船した今の矢作川。東名高速の橋があります。左には三河富士とも言われる村積山。
大樹寺での有名な話につながる地です
その2へ続く

雨が止むのを待ち出かけたので今日はどこまで行けるかなぁ

末野原から鴛鴨町に入り目的地の一つ、鴛鴦山 遍照寺 ここは三河西国三十三観音の第三十番札所です。
本堂と観音堂
しっかり閉められており、お参りも出来ません

山門を出るとすぐに小さな祠がありました
役行者様が祀られていました
途中で
牛頭(ごす)天王を祭る祠跡として塚が築かれたという
鴛鴨松平家の墓所に偶然たどり着きました
於美津の墓
榊原清長、長政の墓所
徳川家康公、井田野の戦いこれから巡る目的地を暗示しているかのようです

鴛鴨松平家の菩提寺である隣松寺は墓所の南に位置します → 隣松寺
もう一つの目的地が近づいてきました

1460年頃、深津藤太夫の名がある。鎌田氏を称していたが、11代鎌田光頼の時、深津氏に改称して初代となる。藤原重次を経て、深津正次の時、1563年「三河一向一揆」で家康公に従事したが、佐々木にて討死。次の政利は、松平宗家8代広忠、9代家康公に仕えたと云う。
いよいよ徳川家康公渡船の所碑です

三面には、いわれが刻まれています
永禄3(1560)年5月1日「桶狭間の戦い」で、今川義元討死を聞いた家康公(当時は、松平元信)は、大高城を脱し、刈谷城主家臣の案内で、鳴海から地鯉鮒(知立)、隣松寺(配津村)を経て、配津村の神退より、配津村の船頭の案内で矢作川を渡り、5月21日無事に大樹寺に着きました。時に家康公19才の時でした。家康公を案内し、舟で仁木村へ渡した船頭は、銀銭3文と長刀一振の書付を頂いたとあります。
ここは鎌倉街道です。東海道はまだ無い時代、鎌倉から京都へ続く街道です。
渡船した今の矢作川。東名高速の橋があります。左には三河富士とも言われる村積山。
大樹寺での有名な話につながる地です

その2へ続く
この記事へのコメント
井田野の戦いに繋がる史跡にも触れられて満足でした